植物は誰かのために生きようとか
思いを受け止めてがんばろうなんて
決して思わない。
アカマツの冬芽
その植物がそこで生きている理由は
そこで自分が繁茂して子孫を残すため、それだけだ。
そのためには多少の無理をしてでも
葉を出して光を浴び、水分や養分を取り込む努力する。
もしその場所での生存が難しいとわかれば
まずは最後の養分を総動員して
種子や子株を作ることを試みる。
それが成し遂げられても、あるいは無理でも
力が尽きたら植物は枯れる。
光合成を行うべき葉は落ちて
導管は水分を通さなくなくなる。
やがて枝は落ち、幹は乾いて朽ちる。
生きる力を振り絞る植物に対して
思いを託すといっても、それはあくまで
人間の勝手な思い込みでしかない。
植物にはまったく関係のないことだ。
そんなことはよくよくわかっているけれど
人間は植物の姿に励まされ、鼓舞される。
それが生きているという事実に
「うれしい」という思いを抱く。
植物が存在しなければ動物は生まれなかったし、
植物が繁茂しなければ人間は生きられなかった。
わたしたちはあらゆる面で植物に支えられてきた。
これからもきっとそうだろう。
長い年月そこに生きる木があるとしたら
それはそこにとてつもない力が存在して
生命を営んだことの証明だ。
力そのものは見えないけれど、
多くの葉や分厚い樹皮にその結果を見ることはできる。
その木がそこで生きるための力がどれほどであったかを
想像することはできる。
人間が想像の次にできるのは、
その結果を忘れずに次を考えることだ。
いつかその木が枯れた時、
なぜ枯れたのか、どうすれば枯れなかったのか、
枯れたことで起きたことは何か。
困難を経てなお続く命があるとしたら、
それを永らえさせる方法は何か。
そして、その木がどれだけ美しかったか、
どれだけ自分たちの役に立ってくれたかも
忘れないでおく。
ひとつの命は必ずいつか終わる。
けれど生命力のリレーはそう簡単には終わらない。
生きる力を継ぐ努力をすることは、
植物だけでなく、生きるものすべての
大切な仕事だと思う。
アカマツの翼果
アカマツ 赤松 (マツ科マツ属)
クロマツに比べて幹肌が赤いことが名の由来。
海岸近くに松林が造成される場合、主に使われる樹種は潮風に強いクロマツだが、アカマツが混植される例も少なくない。アカマツはクロマツに比べて樹皮の色が明るく、幹も細めであるなどから、両種が混植された松林は風景にやわらかさがある。
数多くの名勝百選に選ばれた岩手県の高田海岸も混植例のひとつ。この松林は1667年に造成されたもので、広葉樹の侵入も少ない優良な松林であったが、2011年の東日本大震災により、樹齢約260年のアカマツ1本を残し約7万本がなぎ倒されて壊滅した。残った1本は「奇跡の一本松」と呼ばれ、専門家による懸命の救命活動が続けられたが、塩害のためすでに半枯死状態であり、今後の生存は不可能と判断された。そのままでは倒壊の危険があるとして、本体は2012年9月に伐採されている。切り倒した幹は愛知県と京都府の加工場に運ばれ、保存のための加工が行われている。
なお、枯死する以前の一本松の枝から接ぎ木で作られた苗が育生されているほか、現地付近で一昨年(2010年)に落ちた松笠の種子やそれが発芽したと思われる幼苗も回収されており、現在保護育生が試みられている。
追記。
地震と津波から生き延びた高田の一本松は
「希望の象徴」と呼ばれることが多くあります。
しかし逆の面から見ると、
約7万本もの松がなぎ倒されたということであり、
日々、美しく立派な松林を見てきた人々にとっては
「脅威の象徴」でもあるのではないかとも思います。
希望という言葉には明るい響きがありますが、
わたし個人はそれを口にすることが
少々ためらわれる気持ちがあります。